輪廻転生はあるのか!?この世の存在している姿とは  輪廻転生はあるのか 

 

霊的な感性を持ち合わせていると、感覚を通して様々な知識や考え方が頭に入ってくる場合もあるのだ。新しく入ってくるそのような内容と、自分自身がすでに持ち合わせている知識などを比べる中、様々なことについて考える時間が多くなる。

カテゴリーの中に、哲学という項目を新たに作り、そのことについて紹介させていただきたいと思う。今回の内容は、輪廻転生っというものはあるのかについてだ。

一見輪廻転生というのは、仏教のみの考え方だと思われてしまうが、仏教にも大きな影響を与えている、仏教以前の宗教である、インドのヒンズー教にもその考え方はあり、古代エジプトにも輪廻転生の考え方はあったのだ。

輪廻転生があるのかについて考える前に、この世とは何か、なぜ、人は生まれてくるかについて考えなければならないであろう。また、輪廻転生を繰り返して生まれてくる場となる、この現世における世界は誰が作り出したのかについても、哲学的に考えなければならない。

私達の生きている世界にある自然の姿というのは、現実的にそこにあるのは事実であり、誰かしらの思考によって作り出されたのは事実であろう。

単なる偶然や、奇跡によって魔法のようにできたという考え方を持つ人がいるが、偶然からは必然的な仕組みは生まれない。どのような内容であろうとも、偶然から生まれたものは偶然であり、仮に、この世が偶然から生まれたとするならば、私たちが現在目にしている自然の産物というのは、偶然によってなり立たなければならないのだ。

少し難しい話をしたかもしれないが、偶然からは、DNA の設計図や、自然を保つ仕組みなどが現れることはない。

つまり、DNA の設計図の内容や、自然の仕組みが、必然的にプログラムのように働いているとするなら、この世界というのは、誰かが必然的に作り出したものになる。

誰かが作り出したとするならば、その誰かは一体誰が作ったのかという問題が現れてくる。仮に宇宙人が、この地球を作り出したとしたとしても、その宇宙人は誰が作り出したのかという、無限に続くような問題が生じてしまうのだ。

これは宇宙人のみではなく、違う次元にいる神が創ったとするならば、その神はいったい誰が作ったのかと、これまた、無限に続くような姿が現れてしまう。

卵が先か、鶏が先かという考え方に近いかもしれない。

人は輪廻転生を繰り返しているのかという問題の中には、人はどこまで、輪廻転生を繰り返していくのかについても哲学的な考えを持たなければならないであろう。輪廻転生には終わりがあるにかだ。

人の進化というのは、字が表すように、以前よりも進んでいる状態へと変化を遂げていく。

卵が先か、鶏が先かという問題については、仏教においては、すべては無限に循環をしているため、卵か先か、鶏が先かという問題はなく、無限に輪廻転生を繰り返し、生死を繰り返していると言われているのだ。

仏教においての考え方である、無限に繰り返される輪廻転生が本当に存在するのであれば、霊能力者としてある問題を解き明かすことができるのだ。

霊視や霊能力者に興味のある人は、一度、このようなことを考えてみたことはないであろうか。何故、まだ訪れていないはずの未来について知ることができるかについてだ。

四次元からは三次元に対して、三次元における時間を移動できるため、四次元にいる高級霊などは、三次元における過去や未来を知るという解釈がなされる場合もある。

ただしこの話にも、矛盾がある。たとえ時間が移動できるとしても、三次元においては、まだ未来は訪れていない。過去に移動は出来るかもしれないが、未来においては、未だ存在していないため、知ることができないはずである。

ただし霊能力者は、未来を知ることができる。何故、未だ訪れていない未来について知ることができるのだ。話は簡単である。未来は、すでに存在していたからだ。

この世が無限に循環されてるとするならば、未来というのは既に起きた過去であり、ただ私達はその無限の循環を、線路を歩くように人生を歩んでいる姿である。

この話によれば、輪廻転生先の未来は、今の現在の地点を通り過ぎていくであろう。

人はなぜ輪廻転生を繰り返し、進化を続けていくのか。

誰が、地球を作り出す知識を持ち合わせ、私達を創造されているのか。

私の勝手な哲学的な解釈であるが、神というのは未来に存在しており、神は自分自身で自分自身を創造している姿だと考える。

もしかすれば、次元も生きている存在であり、次元そのものが次の次元へと進化をする可能性もある。直接、下の次元に影響を与える事ができる上の四次元や五次元は、三次元における未来である可能性もあるであろう。

キリスト教では、神は自分を似せて人を作り出したと言われている。神は自分自身で自分自身を創造してるとするならば、この話というのは、まんざら迷信的な話ではないであろう。

私達が苦しんだり、楽しんだり、泣いたりしてるのも、神の心の一部分かもしれない。実はこの考えというのは、私自身の独断な考えではなく、仏教においての密教において、すでにこのような哲学的な考えはあるのだ。

天使も悪魔も、すべては神の一部分と言う考えもある。


ではなぜこのような考えがあるかについて考えてみよう。

このようなイメージをしてもらえばわかりやすいかもしれない。

真っ暗な無限に続く平らな平地をイメージしてみてくれたまえ。無限の命を持つ中で、その平地をずっと歩くと、何もない姿に、自分の存在すら感じることができなくなってしまうであろう。何兆年もそのような状態が続けば、存在そのものが失われてしまう。

ずっと、この暗い平地を歩く中で、白い小さな丸が現れた場合、その白い小さな丸に対して、そこに何かしら存在を感じることができ、その場から離れようとしないはずだ。

存在というのは、差があって初めて、存在することができる。これが存在という名の神の心だ。そのため、悪魔も入れば、天使もいる。悪魔がいるからこそ、天使が存在できるとも言えるであろう。

輪廻転生はあるのか、と話は少し脱線したかもしれないが、神の心の一部である人は、自分自身の存在を求めて輪廻転生を繰り返してると考えることができる。存在をするためには、差が必要であり、その差の中には、生と死の差もある。

差は、生と死以外にも、男と女、起きると寝るなど、私達の世界の身の回りにたくさんあるはずだ。この差の考えは、東洋思想である陰陽道の考え方と繋がる場所もあるかもしれない。

以前の姿と、進んでいる姿との差もあるだろう。野球などのスポーツにおける、強い、弱い、勝つ、負けるなども差があって成り立つものだ。

着用する衣装でさえ全ての人が平等が望ましいと考える共産主義が崩壊したのも、存在を求める思いに反する内容だったためだとも言えるのではないであろうか。

この考え方に従うのであれば、無限に続く不老長寿の薬は、現世において現れることはないであろう。

不老長寿の姿があるとするならば、それは、無限に輪廻転生を繰り返す、神の一部である私達の小さな心を含め、この世を作り出した創造主の心といえるであろう。

輪廻転生はあるのかについての、私の哲学的な内容は、少し難しい内容だったかもしれない。私自身がこの文章を、20代前半にみれば、何を言っている文章なのか理解できず、頭のおかしい人が言っている姿にも見えるであろう。

この考え方は、私自身が人生経験を積み重ね、霊感を働かせ、様々な知識に出会う中、また、仏教の知識や東洋思想の知識など、すでにある霊的な知識を学んでいく中で、自分自身このような結論に至った次第だ。

少なくとも、無限にこの世が循環しているのであれば、霊能力者が未来を知ることの内容については、多くの人が理解できるのではないであろうか。




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